司馬遼太郎にみる理想の文体

1月 5th, 2014 | Posted by admin in 長橋のつぶやき

最近、思うこと。

小中高の義務教育の間は、読み・書きの基本を学ぶものとして、”国語”を習う。

これはこれで日本人に必須の科目であり、日本人である以上避けては通ることはできない。

いままで、自分もいろいろ文章を書いてきたけど、自分が文章を書く上で、参考になったのは、”国語”ではない。もちろん、その基礎は国語にあるので、国語は否定しません。

で、いつもモノを書くうえで、気にとめているのは、”冷静と情熱”。

自分はアナリストを経験していることもあるので、第3者目線で、冷静に起きていることを分析するのがクセになっている。でも、読む側としては、冷静すぎると、あまりにも”評論家”っぽすぎてつまらない。だから、パッションすなわち“情熱”も必要。

ただ、情熱だけで書くと、もう暴走状態で世の中の客観的なモノをまったく見据えず、自分の”情熱”だけでモノを語ってしまう、これはこれでフェアではないと思う。

さて、本題。自分が文章を書く上で一番の手本、マックス・ウェーバー的にいえば、”エートス”となっているのが、司馬遼太郎だ。

いわずもがな、名作「竜馬がゆく」をはじめとして、戦国、幕末を中心とした歴史小説、あるいは、「街道をゆく」、「この国のかたち」といったエッセイでも知られた作家です。

一言でいえば、彼の文体は、歴史家としての”冷静”な視点を保ちながらも、坂本竜馬、高杉晋作、吉田松陰といった人物に惚れる”情熱”が見事に凝縮されていると思う。たとえば、名作「世に棲む日々」の一節

松陰の幸運は、藩政の沈滞期に成人したのではなく、それが上昇しつつある時期-政治に活気と可能性がみちあふれた時代に成人したことであろう。松陰というこの若者は、終生、惨憺たる苦難にあいながらつねにあかるく楽天的で、その死にいたるまで絶望ということを知らなかった。ふしぎな性格というべきである。
「世に棲む日々」(1)p38

そう、自分のなかでの理想の文体とは、冷静と情熱、です。冷静だけだとつまらないし、情熱だけだと我を忘れてします、その間を司馬遼太郎の文体のように上手く行き来したいと思うのでした。ちなみに、自分の文章に、「」もしくは””が多いのは、彼の影響に他なりません。

 

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