Bリーグと地方創生

10月 30th, 2025 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (Bリーグと地方創生 はコメントを受け付けていません)

さて、先日、ある方からBリーグについてお伺いしました。Bリーグは、プロバスケットボールリーグで、最近、バスケットボール人気もあり、26年から新しくBリーグプレミアをスタートするそうです。

 で、このBリーグプレミア、昇格条件がただチームが強ければよいという話ではなく、条件として、1.独自のアリーナをもち、平均4000人以上の観客来場を見込る&アリーナでの必要日数を確保することができること、2.売上が12億円以上あることが基準になる、すなわち、選手が強いだけではだめで、アリーナをふくめた安定した経営基盤を持つことが条件だそうです。

 経営基盤がしっかりしているのは、納得ができる話ですが、論点があるとすれば、アリーナを持つというあたりでしょうか。Bリーグの開催は年間30回ほどなので、アリーナがあったとしても、つねに利用しているわけではなく、バスケットボール開催以外は、コンサートなどの利用が前提のようです。

 おそらく、東京・名古屋・大阪周辺の首都圏であれば、自社アリーナを建設して、年間利用30日でも、コンサートなどで埋まるような気がします。が、このモデルが全国津々浦々まで適用できるかといえば、なかなか難しいようにも思います。かつて、バブルの時代、「ふるさと創生」という名目で、1億円の補助金を出しましたが、大半の地方自治体が「ハコモノ」を生み出し、結果として、「ハコモノ」の供給とニーズがマッチしませんでした。

このあたりに「地方創生」の難しさもあるように思います。「地方創生」は、総論賛成ですが、「誰がおカネを出すの?」、「どうやって人を集めるの?」という各論になると、ちゃんとこの各論に踏み込めるのは、ふるさと納税などで財源が安定している市町村に限られているように思います。

 で、先日、日経新聞で「コンパクトシティ」の話がありました。コンパクトシティは、その名の通り、町をコンパクトにすることで、集約エリアと非集約エリアにわけるそうです。そこそこ人が多い「集約エリア」については、徒歩中心のウォーカブルな街づくりであり、車に依存せず移動できるコンセプトで、幹線系道路に次世代型路面電車(LRT)、バス高速輸送システム(BRT)、自動運転バスなどの定時性と利便性を備えた公共交通を導入。一方、過疎化地域である「非集約エリア」は、パーソナルモビリティを軸とした交通環境整備であり、特に車の運転が難しくなった高齢者や免許を持たない人に対して、ライドシェアの自動運転サービスを提供します。高齢ドライバーに関連した交通事故は深刻な社会問題となっており、ロボットタクシーなどの導入は喫緊の課題のようです。

 で、プレミアBリーグのアリーナに話を戻すと、おそらく、アリーナは「集約エリア」であれば、成立するさらには交通アクセスもよくなって観客が動員しやすい話のように思いますが、「非集約エリア」であれば、バブルの「ハコモノ」になってしまいそうです。 なので、最初のBリーグプレミアのアリーナと平均観客4000人、売上高12億円という安定した経営基盤は「集約エリア」で成立する話なのかもしれませんね。

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10月 21st, 2025 | Posted by admin in 日々の思い - (【2026年版】最新! 生成AI活用術 ~研究者なら知っておきたい、ノウハウ・コツ・tips~ はコメントを受け付けていません)

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寺子屋に思う

10月 2nd, 2025 | Posted by admin in 長橋のつぶやき - (寺子屋に思う はコメントを受け付けていません)

先日、久しぶりに歌舞伎を観る機会がありました。学生時代は時間があると幕見で足を運んだこともありましたが、歌舞伎座で腰を据えて鑑賞したのは本当に久しぶりです。おそらく最近映画化された『国宝』の影響もあると思います笑

 9月の演目は『菅原伝授手習鑑』。人形浄瑠璃から始まった作品で、全六幕を通して観れば丸一日かかる大作です。自分が観たのは後半部分で、最後は単独でも上演される名場面「寺子屋」です。以前にも観た記憶があります。

 で、改めて「寺子屋」を観ると、不思議なモヤモヤが残りました。物語はこうです。
寺子屋を営む武部源蔵は、左遷された菅原道真の子・菅秀才を匿っています。ところが、その事実が露見し、政敵・藤原時平から「首を差し出せ」と命じられます。そこへ首実検にやって来るのが松王丸。彼はいまは藤原時平に仕えているものの、本心ではかつての主君・菅原道真への忠義を忘れてはいません。そこで、菅秀才の身代わりとして自分の息子・小太郎を差し出し、我が子の首を自ら検める、という話です。

 この場面で有名な一句に「せまじきものは宮仕え」があります。今風にいえば、サラリーマンはつらいよといったところでしょうが、主君のために我が子を差し出す忠義は、現代の感覚からすれば理解しがたいですよね。で、終わってからもモヤモヤしていたのは、この「寺子屋」を通して何を伝えようとしているのか、という点でした。

 松王丸は、序盤ではかつての主君の子を追い詰める冷酷な悪役として登場します。しかし、終盤では忠義と父性愛の板挟みに苦しみ、ついにはわが子を犠牲にする姿が描かれる。観ているうちに「悪人」から「善人」へと印象が変わります。これは役者の力量が問われますよね。で、松本幸四郎の松王丸は、前半の憎々しい悪役から後半の悲嘆に暮れる父親までを見事に演じ分けていました。

 では、松王丸は善人なのか、悪人なのか?
 

 私たちは何事にも「良い」「悪い」とレッテルを貼りがちですが、その二分法自体が本当に意味のあることなのか疑問に思えてきます。ニーチェは「善悪の彼岸」で、善や悪の概念は絶対的なものではなく、社会や文化によって形作られた相対的なものに過ぎないと説きました。ある文化で「善」とされるものが、別の文化では「悪」と見なされることもある。だからこそ、道徳を無批判に受け入れるのではなく、批判的に考える姿勢が必要だ、と。

「寺子屋」を観て抱いたモヤモヤは、この「善悪の彼岸」のモヤモヤなのかもしれないと思いました。