先日、久しぶりに歌舞伎を観る機会がありました。学生時代は時間があると幕見で足を運んだこともありましたが、歌舞伎座で腰を据えて鑑賞したのは本当に久しぶりです。おそらく最近映画化された『国宝』の影響もあると思います笑
9月の演目は『菅原伝授手習鑑』。人形浄瑠璃から始まった作品で、全六幕を通して観れば丸一日かかる大作です。自分が観たのは後半部分で、最後は単独でも上演される名場面「寺子屋」です。以前にも観た記憶があります。
で、改めて「寺子屋」を観ると、不思議なモヤモヤが残りました。物語はこうです。
寺子屋を営む武部源蔵は、左遷された菅原道真の子・菅秀才を匿っています。ところが、その事実が露見し、政敵・藤原時平から「首を差し出せ」と命じられます。そこへ首実検にやって来るのが松王丸。彼はいまは藤原時平に仕えているものの、本心ではかつての主君・菅原道真への忠義を忘れてはいません。そこで、菅秀才の身代わりとして自分の息子・小太郎を差し出し、我が子の首を自ら検める、という話です。
この場面で有名な一句に「せまじきものは宮仕え」があります。今風にいえば、サラリーマンはつらいよといったところでしょうが、主君のために我が子を差し出す忠義は、現代の感覚からすれば理解しがたいですよね。で、終わってからもモヤモヤしていたのは、この「寺子屋」を通して何を伝えようとしているのか、という点でした。
松王丸は、序盤ではかつての主君の子を追い詰める冷酷な悪役として登場します。しかし、終盤では忠義と父性愛の板挟みに苦しみ、ついにはわが子を犠牲にする姿が描かれる。観ているうちに「悪人」から「善人」へと印象が変わります。これは役者の力量が問われますよね。で、松本幸四郎の松王丸は、前半の憎々しい悪役から後半の悲嘆に暮れる父親までを見事に演じ分けていました。
では、松王丸は善人なのか、悪人なのか?
私たちは何事にも「良い」「悪い」とレッテルを貼りがちですが、その二分法自体が本当に意味のあることなのか疑問に思えてきます。ニーチェは「善悪の彼岸」で、善や悪の概念は絶対的なものではなく、社会や文化によって形作られた相対的なものに過ぎないと説きました。ある文化で「善」とされるものが、別の文化では「悪」と見なされることもある。だからこそ、道徳を無批判に受け入れるのではなく、批判的に考える姿勢が必要だ、と。
「寺子屋」を観て抱いたモヤモヤは、この「善悪の彼岸」のモヤモヤなのかもしれないと思いました。
